大正から昭和にかけて、多くの文士や芸術家が、 大田区の山王から馬込にかけて居を構え、お互いに交流しながら暮らしていました。

北原白秋(きたはらはくしゅう)・萩原朔太郎(はぎわらさくたろう) ・山本周五郎(やまもとしゅうごろう)・川端康成(かわばたやすなり) ・尾崎士郎(おざきしろう)と宇野千代(うのちよ)夫妻など、近代日本の作家たち、 また、川端龍子(かわばたりゅうし)・小林古径(こばやしこけい)・伊東深水(いとうしんすい) ・川瀬巴水(かわせはすい)などの画家や、彫刻家の佐藤朝山(さとうちょうざん)など、 一時期は80人をこえる作家や画家が住んでいました。 のちにこの地区一帯が「馬込文士村」とよばれる所以です。

大森山王、そして馬込は坂の多い地域で、通称九十九谷と呼ばれます。 南馬込の「臼田坂」には、川端康成(かわばたやすなり)・三島由紀夫(みしまゆきお) ・石坂洋次郎(いしざかようじろう)・稲垣足穂(いながきたるほ)・衣巻省三(きぬまきせいぞう) ・尾崎士郎(おざきしろう)・宇野千代(うのちよ)などが居住していました。 臼田坂下には日本画の巨匠、川端龍子(かわばたりゅうし)の住居とアトリエがあり、 近くに、俳優、池部良の父、画家の池部釣(いけべひとし)が住み、お互いに交流もありました。

「龍子記念館」は、生前龍子画伯の設計で龍を象って建てられ、 アトリエ・庭園ともに龍子の思い入れが随所に認められます。 また富士山が見えたことから「富士見坂」と呼ばれる馬込の坂の途中には、 今もこんもりとした森が残っていますが、 幕末には福山藩主阿部正弘の別邸があり、知る人ぞ知る桜の名所でした。 長い坂の頂きからは遠く東京湾を望むこともできました。 昭和の広重といわれた川瀬巴水(かわせはすい)・水彩画の真野紀太郎(まのきたろう) ・古径の弟子、岩崎巴人(いわさきはじん)・須藤宗方(すどうむねかた)が 坂上の一角に居住していたのでこの辺りは芸術村と称されていました。 余談ですが、 馬込には、江戸城にまつわる逸話が残されています。

江戸城を建設する際、馬込の地形は坂が多く難攻不落、そこで候補地に挙がっていたようですが、 九十九という数字は縁起が悪いということで、江戸城は建てられることはありませんでした。 日本を代表する詩人が多く住んでいたことも、「馬込文士村」の大きな魅力のひとつです。

北原白秋(きたはらはくしゅう)・萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)・室生犀星(む ろうさいせい)・三好達治(みよしたつじ)・佐藤惣之助(さとうそうのすけ)・草野 心平(くさのしんぺい)と枚挙にいとまがありません。 坂上の住人、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の影響を受けた牧章造(まきしょ うぞう)・島朝雄(しまあさお)・川崎洋(かわさきひろし)等の現代詩人もこの 地から巣立っています。 また村岡花子(むらおかはなこ)、片山廣子(かたやまひろこ)、宇野千代(うの ちよ)、吉屋信子(よしやのぶこ)、佐多稲子(さたいねこ)をはじめ、 著名な女流作家が暮らしていました。 「馬込文士村」は、重要な女流文学ゆかりの地でもあります。

他に、書家の熊谷恒子(くまがいつねこ)の家もあり、 そこは、現在「熊谷恒子記念館」になっています。 文士や芸術家たちは互いに交流し合い、ともに遊んだり、恋をしたり、 酒を嗜んだり、愉快なコミュニティーを形成しつつ、 人々に感動を与える数々の作品を創作してきました。そのような意味で、 「馬込文士村」は世界にも類を見ない価値ある文化遺産といえましょう。 現在「馬込文士村」として認められ親しまれていますが、 今まで多くの研究者や文学愛好家の功績があったことを忘れてはなりません。

そのなかでも、後に大田区内の中学校校長を務めた野村祐氏は 昭和20年代から馬込に在住した作家の足跡を調査し続け、 昭和59年に『馬込文士村の作家たち』と題して貴重な一冊を上梓しました。 野村氏は「馬込村文芸の会」を立ち上げましたが、昭和60年の秋に惜しくも他界しました。 村田季男氏、中村喜代次氏、大沢富三郎氏が野村氏の後を引き継ぎ、 会長として、講演活動や行政への提案等、馬込文士村を後世に伝える 施設と作家の居住地に立てる標識の設置を区に訴えてきました。

「 馬込文士村継承会」は、それら先人の意志を受け継ぎ、 この価値ある有形、無形の遺産を次世代に継承するとともに、 広く世間にその存在とすばらしさを知ってもらうことにより、 地域の活性化と街づくりに貢献したいとの思いから、2000年春、有志数名で結成されました。 文化講演会や散策会の主催を通じて会員を募り、 会員数の拡大に伴って2004年6月にNPO法人となり活動を続けています。

文化を育んできた土壌からは必ず新たな芽生えがある事を確信して、 これからも活動を続けたいと思っています。